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変わりたいあなたの参考に…自分史第三章-① 阪神大震災と人生の転換
<最初に>

こんにちは、奥川です。

僕はいま「施術家」として整体院を運営しながら、運動指導やセミナー、著書出版なども行っていますが、
元からそんな道にいたわけではありません。

むしろ昔の僕は、
“コミュ障・陰キャ・ガリガリ”の三拍子そろった、ただの自信がない少年でした。

  • 人前で話すのが苦手

  • 運動なんて大嫌い

  • 褒められるのは「絵」くらい
    そんな僕が、どうやってこの仕事にたどり着き、
    「人に何かを伝える側」になれたのか。

これから数回にわたって、
そんな僕自身の変化の軌跡を「自分史」としてお届けします。

決して特別な才能があったわけじゃありません。
だからこそ、

「変わりたい」と思っているあなたにとって、何かのヒントになるかもしれません。


今回の第三章-1は…

今回は、私が人生のどん底にいた時──阪神大震災によってすべてを失い、心まで折れてしまった頃の話を綴ります。

この経験が、私が「身体と心のつながり」に真剣に向き合うようになった原点でもあります。
ただの個人の昔話ではなく、「人はどうやって再び立ち上がれるのか?」という希望の物語として、必要な方に届けば幸いです。

 

第三章を二分割して前半部分をお届けします。


◆◇◆◇◆◇


自分史第三章-①  阪神大震災と人生の転換


バイトが終わるとすぐにフィットネスクラブに向かい筋トレ、少しづつ身体が変わっていって自信がつき出した…そんな矢先、阪神大震災が発生。

 

  

通っていたフィットネスクラブはビルの屋上にあり、プールの底が抜けて営業不能に。バイト先も潰れ、生活は一変しました。

 
ですが…そんな状況だったのですが、震災で仕事先がそもそも消滅してしまった事で将来に希望を持てなくなり半ばうつ状態になってしまいました。

 

今考えると当時は「パニック症候群」のような症状が頻繁に発生していました。

 

夜寝ていると心拍数が一分間に200回はあるだろう状態になり「このまま死んでしまうかも?」と不安になる事も度々でした。

 

家から出る事が出来なくなってきて、これはいよいよマズイと思って「心療内科」を調べて受診に伺いました。

 

その時の先生が今思えばとても良い先生で

 

「君は震災の後遺症で未来に希望を持てなくなっている状態で、鬱の一歩手前と言っても良い。」

「まだ、薬を飲むまでも無いと私は考えていて、出来れば薬を出したくない」

「でも、どうしても辛くなったら薬を出すから、出来るだけ自分の力で頑張ってみて」と言ってくれました。

 

この言葉がいかに深い意味を持つ言葉と理解出来るのは相当後になってからですが

 

その言葉を聞いた後から「そうか希望を持てなくなってるだけなんだ」と、なんとなく腑に落ちてからは少しづつ元気を取り戻し始めました。

 

そんな中で新しい仕事を探しているとフィットネスクラブのチラシ配りをする期間限定バイトの募集が目に留まりました。

 

フィットネスクラブのチラシ配りの短期バイトで同年代の仲間と出会い、極端な人見知りが少しずつ改善していきました。

 

どれくらいに人見知りっだったかと言うと…

一度「天下一品」で働いた事があるのですが(実家が中華料理屋とバレて産業スパイとあだ名を付けられた)

 

店長以外の誰とも赤面してしまって話が出来ないので、仕事がなかなか覚えられなくて、昼のバイトのオッサンに「お前このままでは社会で生きていけないぞ!」と毎日説教されたほどでした。

 

その後はなるべく人と話さないで出来る仕事(工場の作業員など)を選んでバイトしていました。

 

しかし、震災後に見つけたチラシ配りのバイトは同世代の男女ペアで担当地域の家に協力してポスティングしていくという、陰キャの私のリハビリに最適な環境でした。

 
  

一つ年上の今でも覚えているのですが「高木君」という「パンタロン」のズボンしか持っていない謎の大学生と仲良くなって、その子が絵にかいたような「陽キャ」だったので一緒にいるうちに私も少しづつ人と話が出来るようになっていきました。

 
  

 

そうして人見知りが改善していき接客業にも挑戦できるようになり、当時は時給が良い上に賄いがあり儲ける事の出来たパチンコ屋で働くことに。
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