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科学が置き去りにした「心」と「想い」
色んな事を突き詰めて考えると
死生観にぶつかると思ってます。
10年以上前から言ってますが…
間違ってたのでは?という事に、案外日本より欧米諸国が先に気付くかもしれませんね…
知識は言語により、世代を越え伝える事が出来るので、知識は世代を越え伝わり
人類は他の動物より圧倒的に地球上でイニシアチブを取れるようになり、発展してきたのですが
知識に「想い」を載せて伝えられない、弊害がところどころに見受けられる気がします。
科学は人の「想い」を「感情」と混同している間はなかなか修善出来ないだろうズレ。
想いは言葉が生まれる前に生まれますが
感情は想いに知識(概念)が混ざったものだと私は考えています。
脳科学者がクオリア(心の質感)と呼ぶものかもしれません。
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クオリアは多かれ少なかれ、感覚情報から作られます。
乳児が物を舐める事で「何か?」を確認するように、大人は舐めるように見るという言葉が生まれたと
解剖学、発生学者の三木成夫郎先生は仰ってました。
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科学は余りに深淵で複雑になり過ぎて、私達は次から次に生まれる新しい科学を無批判に受け入れがちではないでしょうか?
ともすれば、最初にその科学的発見を成し得た人物の「想い」と異なる…
場合によっては、反する利用をされていないか?
それを判断する事は、最早一般人には大変困難…場合によってはほとんど不可能ではないでしょうか?
しかし、間違って利用されていたとして
それを止めるのは、人々の正しい「想い」だと僕は思ってます。
自戒を込めてですが…
なので、これから少しずつ「想い」「心」を重視して、科学の万能感を戒める社会になる気がします。
個人的には、なった方が良いと思います。
しかし、その際に科学を放棄するのも間違ってると思います。
人間はそもそも、身体一つ動かすのも「過去の経験、知識」を利用するからです。(フィードフォワード制御)
しかし、一流の「巧み」な身体奏者は多かれ、少なかれ、その事実に「気付いている」から弊害を受けない。
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上澄みの科学的なものが全てと思う人々はそこに躓き、引っ掛かり、自分で乗り越えれば良いですが
「もっともっと良い科学は現れないだろうか?」と待ち望むのではないでしょうか?
しばらく、そんな科学は現れない事は、ロボット工学が示してますがね…
人間型の直立二足歩行のロボットは未だ完成してません。
あるのは猿を模倣した直立二足歩行ロボットですから…
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もっともっと良い科学を望む一方で
私達は、科学的でなく見える、想いや心を見つめ直す時期だと考えています。
最後に、改めて自戒を込めて。
最後まで読んでいただきありがとうございした。